憂うべき想像力の欠如   [ブログ]

自由に発言できることの危うさ


自分が被害者の遺族となった、と想像してみよう。もちろん、真犯人が厳しく罰せられるのが一番納得できる。しかし、である。もしそれが警察・検察の力及ばず不可能だった場合、「無実の人を無理やり犯人に仕立て上げて、その人を罰する」ことで何か満たされるだろうか。そんなことは絶対にない。むしろ、被害者を一人増やしただけのことだし、もし仮に「無実だろうと何だろうととにかく犯人を決めて罰してくれ」と願ったとしたら、自分自身が加害者になってしまう。それくらいなら「真犯人がわからず、逃げおおせる」方がまだマシである――いや、実は「無実の人を無理やり犯人に仕立て上げる」ということは「真犯人を取り逃がす」ということも含んでいるのだから、何倍も悪いということになろう。


あるいは、「冤罪の可能性があったとしても、真犯人を漏らすよりマシ」という考え方は、「自分自身が濡れ衣を着せられる」可能性を高めることにもなるし、その際に誰も助けてくれないということになる。濡れ衣だろうと何だろうと、あやしい奴は片っ端から断罪しておけば真犯人を逃しにくい、と考えるような人は、自分自身がその「あやしい奴」だと決めつけられる可能性についての想像力が根底から欠如している。


京都亀岡暴走事故で3人の犯人の名前を6人分「暴い」たネットの暴走

2012426 12:06 AM

http://www.kotono8.com/2012/04/27bousou.html より

  作成中・・・


死刑賛成と、「被害者遺族感情」を利用して叫ぶ人を、私は決して信用しない

http://blogs.yahoo.co.jp/hiroshikey66/62653703.html
   

想像力の欠如が日本をおかしくしている。

http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_24.html

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