「泥棒を捕まえてみれば警察官」 [言葉・文章]
説得力がないのは至極当然
あるブログの「推敲の重要性」という記事に迂闊な誤記(不適切な表記)があった。
(誤) 感性 ⇒ (正) 完成
「嘘をつくな」と言っている人が嘘をついているのと変わらない。これでは説得力に欠ける。「あなたに言われたくない」となる。このブログでは他の記事にも同様の誤記があった。
(誤) 跡で ⇒ (正) 後で
(誤) 保健 ⇒ (正) 保険
(誤) 骨格資格 ⇒ (正) 国家資格
まったくもって笑止千万!! コメント欄で指摘したが、まったく修正なし。
泉ウタマロさんのブログにも誤記があった。4か月経つが、これもまったく修正する気配は見られない。これは、服を裏返しに着て街中を歩いているのと変わらない。その感覚を疑う。
http://ribosomaltranslator.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-c3b9-1.html
http://naousami.cocolog-nifty.com/hetare/2004/07/post.html より
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読みやすい文章 VS 読みにくい文章 2 [言葉・文章]
読みにくい文章は読み手に大きな負担を強いる
段落の設定がなく、文字がぎっしり詰まった文章は読みにくいことこの上ない。そういう文章を好き好んで読む読者はいない。しかし、それを仕方なしに読まざるを得ない読者にとって、そういう文章は極めて迷惑な存在だ。そこにあるのは著者の独り善がりそのものだ。
視覚的に読みやすいということは大前提だが、難しい言葉を使うことが偉いと勘違いしている著者もいる。難しいことを平易な言葉でわかりやすく書くことこそ、その著者が高い能力を持っていることを示す。勘違いも甚だしい。
http://anond.hatelabo.jp/20110223195508
↓ こんな文章を誰が好き好んで読むか!!
http://ribosomaltranslator.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post-1c7c.html より
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著者が心掛けるべきことは、読み手に負担を掛けないこと [言葉・文章]
間違った記述のために解釈を巡って大混乱
ハイブロー武蔵氏は、「いますぐ本を書こう!」でエッセイを書くときの文体について木村 治美氏の「エッセイを書きたいあなたに」を引用していた。
“(木村氏は、)女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難ではないかという” と、ハイブロー武蔵氏は前置きした上で、次のように言う(書いている。95ページ)。
これは、木村氏が「である体」を提唱することの根拠を説明したものである。すなわち、「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」が、「です・ます体」によって増幅されないということがその理由だという。
「です・ます体」によって増幅されないということは、「である体」では増幅されるということになる。増幅された方がいいので「である体」を提唱するという訳である。
しかし、「ただでさえ」という言い方をしていることを考えると、「である体」では増幅された方がいいという解釈は疑問が生じる。「ただでさえ」増幅している女性独特のトーンを抑制する必要があるために、増幅されない「である体」を提唱していると解釈すべきだ。
ハイブロー武蔵氏が引用した部分は、木村氏の「エッセイを書きたいあなたに」では、「増幅されかねない」とある。「増幅されかねない」とは、増幅される場合もあるということである。そういうことにならないようにするために木村氏は、「である体」を提唱している訳である。
ハイブロー武蔵氏は、“「です・ます体」によって増幅されかねない”と表記すべきところを“「です・ます体」によって増幅されない”と表記した。そのことが解釈の混乱を招いた。ちょっとした表記の間違いだが、この違いの持つ意味は大きい。
さらに、ハイブロー武蔵氏のその文章がわかりづらいのは、「から」という言葉の重複にある。「・・・からだ」と表記すればいいのに、「・・・からという理由からだ」と表記している。その文章感覚は極めておかしい。
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http://gaisyokuch.blog.fc2.com/blog-entry-2745.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483099304
悪文の見本 (?) [言葉・文章]
一読して理解できない文章が「悪文」
一読して理解できない文章がいい文章であるはずがない。一読して理解できないとなると、それを理解するには読み直さなければならない。読者に読み直しを強要するような文章は「悪文」である。
ハイブロー武蔵氏は、引用を間違っただけでなく、「から」という表現を重複して使っていた。まさにそれは「悪文」としか言いようがない。「悪文」の見本と言ってもいいぐらいだ。
「いますぐ本を書こう!」
⇒ 「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
⇒ 「です・ます体」によって増幅されないからという理由からというのです。
この「・・・によって増幅されないからという理由からというのです」は、何を言っているのか訳がわからない。これこそまさに、典型的な「悪文」だ。校正の段階でどうしてチェックできないのか。いったい、どういう編集をしているのか。
ハイブロー武蔵氏は、「本についての感想や著者に伝えたいことなど、お手紙をお待ちしています。どんどんお寄せください」と、自著の奥付に書いている。しかし、疑問に思った点を著者に問い合わせても、ハイブロー武蔵氏からは何の回答もない。
ハイブロー武蔵氏は、ホームページも持っている。しかし、そのホームページは更新されていない。「スカイプ英会話の効果」という記事(2013年8月)のみである。コメントもない(コメントしようとしてもコメントできない)。
出版社(総合法令出版)によると、ハイブロー武蔵氏は、現在活動を休止しているという。ネットの情報によると、どうもよくわからない人物のようだ。どういう事情があるかわからないが、作家としての活動を一日も早く再開し、その優れた資質を社会のために役立てて貰いたい。
ハイブロー武蔵なる人物の正体は?
http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/51645521.html
ホームページ http://www.highbrow634.net/
本についての感想や著者に伝えたいことなど、お手紙をお待ちしています。どんどんお寄せください。
〒107-0052 東京都港区赤坂Ⅰ-9-15 日本自転車会館2号館7階
総合法令出版 第二編集部気付 ハイブロー武蔵行 (2014年2月、中央区日本橋に移転)
「いますぐ本を書こう!」 奥付(著者紹介) より
間違った引用が混乱の原因 [言葉・文章]
問い合わせても著者からは回答なし
ハイブロー武蔵氏は、エッセイを書くことについて木村 治美氏の「エッセイを書きたいあなたに」から引用したものを「いますぐ本を書こう!」に書いていた。しかし、その引用には実に迂闊なミスがあった。
何度読み返しても理解できなかったのでQ&Aサイトで質問してみた。そうしたところ、36件の回答があった。その多くが著者の文章の拙さを指摘していた。しかし、いずれの回答でも疑問を解消するには至らなかった。
ハイブロー武蔵氏の文章がどうして理解しづらいのか、考えられるのは引用した木村氏の本に問題があるということである。木村氏の文章自体がわかりにくいものであるにもかかわらず、ハイブロー武蔵氏はそれをそのまま引用したということが考えられる。
そこで、木村治美氏が実際にどういうふうに書いているのかを図書館で調べてみた。そうしたところ、ハイブロー武蔵氏が木村氏の文章を引用するに当たって間違った記述をしていたことが判明した。木村氏の文章には何の問題もなかった。
間違い 「いますぐ本を書こう!」
ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
正解 「エッセイを書きたいあなたに」
ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。
読んでいて「おやっ?」と思うのは、そこにそれまでの文章の流れからして不自然なものがある(流れが途切れる)からである。
「なぜならば」と続く文章ならば、著者がそう主張することの理由がそこになくてはならない。「しかし」と続く文章ならば、それまでの主張と対立するものがそこになくてはならない。
一読して理解できない文章は「悪文」と言っていい。ハイブロー武蔵氏は、引用を間違っただけでなく、「から」という表現を重複して使っている。まさにそれは「悪文」としか言いようがない。「悪文」の見本と言ってもいいぐらいだ。
どうしてこういう「悪文」の本が流通するのか。「いますぐ本を書こう!」の改訂版とも言える「新・いますぐ本を書こう!」がその5年後に出版された。しかし、その「悪文」は訂正されていない。訂正されるどころか、さらにおかしな文章になっている。まったくもって呆れ果てる。 (怒)
間違い 「新・いますぐ本を書こう!」
ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からというのです。
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出版社への問い合わせ [言葉・文章]
ハイブロー武蔵氏の著書の問題点
質問
「いますぐ本を書こう!」の95ページに記述の間違いがあります。
>「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
☓ 増幅されないから ⇒ 〇 増幅されるから
もしくは、
☓ 「です・ます体」によって増幅されない ⇒ 〇 「である体」によって増幅されない
です。 また、「から」が重複しています。
2014.2.19
出版社からの回答
いつも大変お世話になっております。
このたびは、お問い合わせいただき、誠にありがとうございます。
「から」の重複はご指摘の通りかと思います。
また、「増幅されない」の件は、著者にご指摘を申し伝えるようにいたします。
何卒よろしくお願い申し上げます。
総合法令出版 編集部
2014.2.20
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読み手を困惑させる訳のわからない文章 [言葉・文章]
ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅・・・
「いますぐ本を書こう!」の中でハイブロー武蔵氏は、次のように述べている(94~95ページ)。
これを箇条書きすると、
(1) | 木村治美氏は、「です・ます体」を使ってエッセイを書いている。 | |
(2) | 木村治美氏は、評論や論説に「です・ます体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できるのではないかという。 | |
(3) | 木村治美氏は、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難ではないかという。 | |
(4) | なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 |
となる。ハイブロー武蔵氏は、木村氏自身が「です・ます体」を使ってエッセイを書いている一方で、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難ではないかという木村氏の考えを紹介している。
木村氏がそう主張する根拠をハイブロー武蔵氏は、(4)で説明している。しかし、その言っていることは実にわかりにくい。
>なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
“「です・ます体」によって増幅されない”とは、“「です・ます体」を使えば増幅されない”と解釈できる。増幅された方がいいので「である体」を使うことを木村氏は提唱する。論理的に考えればこういう解釈になる。
しかし、これと正反対の解釈がある。すなわち、
という解釈である。果たして、どちらの解釈が正しいのか。どうしてこういう解釈の違いが生じるのか。
「ただでさえ」ということは、「何もしなくても」「普通に」ということである。しかし、「ただでさえ・・・・・・」と言いながら、「・・・・・・増幅されない」と、ハイブロー武蔵氏は言っている。「ただでさえ」と言うのならここは、「・・・・・・増幅される」と言うべきでだ。
(誤)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
(正)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されるからという理由からだ。
つまり、ハイブロー武蔵氏は、
ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によってさらに増幅される
↓
「である体」では増幅されない
↓
増幅されない方がいいので「である体」が無難
と言いたいはずだ。ハイブロー武蔵氏のその文章は、「から」の重複もあり、極めてわかりづらい。いったい、どういう推敲をしているのか!!(怒)
そもそも、ハイブロー武蔵氏は、木村氏の考えを正しく伝えているのか。ハイブロー武蔵氏のその著書ではさっぱりわからない。ハイブロー武蔵氏に問い合わせても回答はない(出版社によると、ハイブロー武蔵氏は活動を休止しているという)。
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推敲の大切さ [言葉・文章]
http://syumi101.net/bungei/essay.html より
>読者の立場に立って分かりづらい表現はないか、舌足らずの表現はないかをチェック
>言わずもがなの分かりきった事柄、重複する表現などを削ります
「わかりにくい」文章に共通するのは、読み手の立場を無視した、書き手の独り善がりである。誰も経験したことがないほどの特異な経験をわかりやすく説明するのには、読み手が理解できるような表現を試みる必要がある。それをしないで書き手の思いだけで書いたものが読み手の理解を得るはずがない。
面白いことを体験してそれを書いたとしても、面白がっているのは書き手だけで、読み手にとっては何ら面白くないというケースがある。これは、書き手の独り善がり以外のなにものでもない。
>自分の書いた文章や内容に酔っている間は、誰でもまともな推敲ができませんから、「作品」として完成させるまでには時間がかかります。
自分の書いたことに酔いしれているようなところが、樋口氏の文章にもある。果たして樋口氏は、著書の推敲にどれほどの時間を掛けているのか。執筆に忙しくて推敲に時間を掛けられないというのは理由にならない。
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読解を論理的思考のみで考えることが可能か? [言葉・文章]
質問:この時の花子の気持ちを答えなさい。
( 中 略 )
「本当」の読解力というものは、作者が与えた命題に対して、「自分なり」の解答を出す事である。その解答は人によって違う場合もあるし、あってしかるべきである。同じ人が読んでも、読んだ時の年齢にや精神状態の違いによっても、同じ書物から得られるものは違うものである。それが読書の本質である。
それに対して、受験問題の国語を解く事は、問題作成者によってあらかじめ決められた解答を「探す」という作業でしかない。(だからかつて、ある入試問題とその解答について、問題に使用された元文章の著者が「その設問はおかしい」また「そのア〜エの選択肢の中には、私の意図するものはない」とクレームをつけた事がある。)これは私の言う「本当の読解力」とは、全くかけ離れたものである。それはあらかじめ作者によってその道筋が決められているコンピュータのロールプレイングゲームを解くようなものである。そんなものは、決して本当の国語力ではない。
私の言う「読解力」は、書物(文章)からさまざまな事を学び取る事である。学び取る内容は、人によっても異なるし、同じ人でもその書物を読んだ年齢、時期、感性によって異なる。良書とはさまざまな年齢、時期、感性の人に読まれて、それに耐える本の事をいう。だから本から与えられるもの、読み取れるものは無数にあり、設問に対して一つの答を出すというのは、必ずしも出来ない場合があるのである。
そこで、受験の国語に限って考えてみる。受験の国語の正答がただ一つに決まっていると仮定しよう。もしそうだとするならば、もしかしたら「論理的」に答を導く方法があるかも知れない(※)。しかし私の言う「国語力」「読解力」というものは、受験国語の問題を解く力のような、そんな小さなものではないのだ。
(※ 仮にそうだとしても、全ての解答を「論理的」に導く事はできない。それは、先の「論理××××」のご担当者と話をした時に、その方に具体的に明示した。)
これらのことからわかるように、さらに本書のキャッチコピー「偏差値20アップは当たり前!」からもわかるように、福嶋氏の述べている「国語力」というのは、あくまでも「受験問題の国語の解答を探す力」であって、私の言う「本当の国語力」ではない。呼び名は同じだが、質は全く異なるものである。福嶋氏がそれを「本当の国語力」と呼ぶのなら、それはそれで、仕方のないことだが、できることなら「本当の受験国語力」とでもして頂きたかったと思う。
http://dogmatism2.exblog.jp/13219499 より
福嶋氏は、論理的思考力を「言いかえる力」「くらべる力」「たどる力」という3つの言葉で説明している。そして、3つの力の中で中心的な役割を果たすのが「言いかえる力」だという。
福嶋氏の著書 “「本当の国語力」が驚くほど伸びる本―偏差値20アップは当たり前!” には38件のamazonレビュー(カスタマーレビュー)が投稿されている。その多くは高評価(★5つ)であるが、低評価のものが数件あることに対して福嶋氏は、「まっとうな批判と言える文章は皆無である。いずれも愚かしい文章ばかりだ」と反論している。
第三者の立場からすれば、ごく一部の心無い批判にむきになることもないのではと思うが、批判された側としてはまったく無視できないのも無理はない。
福嶋氏の厳しい反論に恐れおののいたのか、一部のレビューは削除されている。しかし、福嶋氏に対する批判を執拗に繰り返している投稿者もいる。それは、福嶋氏に対するやっかみとも受け取られかねない面もある。さて、読者の判定やいかに?
一部amazonレビューへの見解
http://www.yokohama-kokugo.com/amazon.html
国語とは「論理的な読み方・書き方」を学ぶ科目
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-1740.html
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テストの出題文にみる国語教育の問題点 [言葉・文章]
ある国語のテストにこういう(↓)出題があった。
選択肢 ⇒ 「すると」「でも」「つまり」「ところで」
福嶋隆史氏は、
>普通は、「たしかに」「もちろん」「もっとも」「まあ実際は」といった譲歩表現になるはず。(4つの選択肢から)あえて選ぶなら「でも」しかない。
という。つまり、「与えられた選択肢はどれもふさわしくない。出題者の文章力を疑う」という。
http://ameblo.jp/yokohama-kokugo/entry-11731085063.html より
出典となった文章が論理的でない場合、その言っていることに説得力はない。そういう文章を国語のテストの出典とすることは、出題者の文章力に問題があるということに他ならない。まさに国語教育の問題点の一つがそこにある。
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