読み手を困惑させる訳のわからない文章 [言葉・文章]
ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅・・・
「いますぐ本を書こう!」の中でハイブロー武蔵氏は、次のように述べている(94~95ページ)。
これを箇条書きすると、
(1) | 木村治美氏は、「です・ます体」を使ってエッセイを書いている。 | |
(2) | 木村治美氏は、評論や論説に「です・ます体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できるのではないかという。 | |
(3) | 木村治美氏は、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難ではないかという。 | |
(4) | なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 |
となる。ハイブロー武蔵氏は、木村氏自身が「です・ます体」を使ってエッセイを書いている一方で、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難ではないかという木村氏の考えを紹介している。
木村氏がそう主張する根拠をハイブロー武蔵氏は、(4)で説明している。しかし、その言っていることは実にわかりにくい。
>なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
“「です・ます体」によって増幅されない”とは、“「です・ます体」を使えば増幅されない”と解釈できる。増幅された方がいいので「である体」を使うことを木村氏は提唱する。論理的に考えればこういう解釈になる。
しかし、これと正反対の解釈がある。すなわち、
という解釈である。果たして、どちらの解釈が正しいのか。どうしてこういう解釈の違いが生じるのか。
「ただでさえ」ということは、「何もしなくても」「普通に」ということである。しかし、「ただでさえ・・・・・・」と言いながら、「・・・・・・増幅されない」と、ハイブロー武蔵氏は言っている。「ただでさえ」と言うのならここは、「・・・・・・増幅される」と言うべきでだ。
(誤)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。
(正)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されるからという理由からだ。
つまり、ハイブロー武蔵氏は、
ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によってさらに増幅される
↓
「である体」では増幅されない
↓
増幅されない方がいいので「である体」が無難
と言いたいはずだ。ハイブロー武蔵氏のその文章は、「から」の重複もあり、極めてわかりづらい。いったい、どういう推敲をしているのか!!(怒)
そもそも、ハイブロー武蔵氏は、木村氏の考えを正しく伝えているのか。ハイブロー武蔵氏のその著書ではさっぱりわからない。ハイブロー武蔵氏に問い合わせても回答はない(出版社によると、ハイブロー武蔵氏は活動を休止しているという)。
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>「です・ます体」を使えば増幅されない。増幅するためには「である体」を使うべき。
ということですね。
結論から申し上げると、これは違います。
1. 「です・ます体」は、やわらかい表現方法なので、評論や論説のような硬い内容の文に使えばちょうどバランスが取れて良い印象を与えることができる。
2. 逆に、女性がエッセイを書くときには、「である体」のような硬い文体を使うほうが無難だ。
3. なぜなら、女性のエッセイが元々持っているやわらかい内容が、「です・ます体」のようなやわらかい文体を使うことによってさらに増幅されてしまうという危険を防ぐことができるからだ。
by No.29 (2014-03-18 12:20)
「ただでさえ」と言う場合、それを受ける言い方(言葉)は限定される。
(例文その1) ただでさえ収入が少なくて生活は苦しい。税金が上がれば余計に生活は苦しくなる。
ただでさえ「苦しい」 さらに「苦しくなる」 ⇒ 肯定を強調
(例文その2) ただでさえ・・・するのは容易でないのに、・・・するとなるとさらに容易でなくなる。
ただでさえ「容易でない」 さらに「容易でなくなる」 ⇒ 否定を強調
よって、
ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されない
というのは、明らかにおかしい。ここは、「増幅されない」ではなく、「増幅される」でなければいけない。
ただでさえ感傷的になりがちな女性は、「です・ます体」を使えば余計に感傷的になる(増幅される)。
これなら何の問題もない。すんなり理解できる。
by クレーマー&クレーマー (2014-03-18 14:11)