「走ることについて語るときに僕の語ること」   [出版]

凝った書名にただただ困惑

[書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/10/post_2c50.html


 僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかり小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」として、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。
cover
走ることについて語るときに
僕の語ること

 村上は「メモワール」というフランス語の語感に思い入れがあるようでいて「エッセイ」のフランス語の語感を知らないのも奇妙にも思われるのは、むしろ英語での語感を大切にしているからかもしれない。と、どうでも皮肉のようなことを書く必要もないのだが、本書の凝ったタイトルが示唆するように、走ることを語りつつ、小説家としての内面を語るという趣向になっている。そして、そのように読める。読めないことはない

 だが後味の苦みのような部分は、私が一人の「どこにでもいる人間」として半世紀ばかり彼の愛読者だった何かに関わっているのだろう。彼はサリンジャーのように20代の終わりから30代に向かうころ小説家となりやがて50代を終えようとしている。

28日、渡辺パコ氏の「考え方のつくり方」を取り上げました。その本もタイトルは少し凝っています。同様の本が数あるために差別化を図ったものだろうと思いますが、私はそういうタイトルにどうしても違和感を覚えます。それは、日本語としてやはり少しおかしいと思うからです。

  

村上春樹氏のこの本も渡辺氏の本とその点で同じです。有名であるからこそそういうタイトルを付けても批判されないのかも知れません。無名の者がそういう本を出そうとすれば編集者からすぐにクレームが付くのではないでしょうか。「何だ、このタイトルは」と。

    

一つの分野で大御所と言われるような人にとっては、どんな批判があろうとも、それは実績のあることの証明という事になるのでしょうか。謂わば、そういう批判は実力のある人にとって「負け犬の遠吠え」にすぎないのかもしれません。

   

しかし、それでも私は、「おかしい」と思うことに対しては「おかしい」と言いたいと思います。

                                       にほんブログ村 経営ブログ マネジメントへにほんブログ村 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。