検証 「いま、なぜ死刑廃止か」 5   [ブログ]

死刑囚と責任性
 
 
    
 そういう意味では、死刑になるような凶悪な犯罪を犯した者に対し、おまえは全責任を負えということを、死刑という刑罰で追求することは科学の法則に反する。これが普通の刑罰、死刑でない懲役などであると刑事政策の発達により執行猶予とかプロベーション(保護観察)という形で処罰を代償させることが可能であるが、死刑は代償できない意味で過酷にすぎる。
 『死刑囚二四四五号』を書き、死刑と闘いつづけたが、ついに処刑されたキャロル・チェスマンの言葉を引用する。
 「わたしのやったことを正当化することはできない。理解もできない。しかし、わたしのやったことを理解し、そこから大きな社会的意義を引き出すことはできる。・・・・・・すなわち、反社会的人間は、つねに必ず若い心、精神、もしくは魂が、外部の力の強い衝撃を受けた結果生まれるものだということである。さらにわたしの物語は、おとなになってから凶悪な犯罪で社会を脅かす人間でさえも、突然、一人前の悪人として、地獄からとび出したものでないということを、同じような明白さと力強さをもって示していると思う。かれらは環境という複合体の産物なのだ。かれらの若いとき、なにかがあったのだ。かれらは、どんなことが起こるか社会に充分に警告を発していたのである。危険信号はつねにはっせられていた」
 希望に燃え、ロマンチックな感情に飢えており、愛情を必要としている時代に、現実は手荒く、残酷に報われる。恐怖、罪悪、無力感、だれからも愛されていない、必要とされていない、のけ者にされているという惨めな感情から、自分が虐げられているように感ずる。頭は混乱し、ついに犯罪という大義名分に結びつく。チェスマンの青春時代はまさにこの段階を徐々に登りつめてきたのであった。

 ひとりチェスマンに限らない。人は生まれながらにして犯罪者であったのではない。犯罪にいたるよう生かされた人間の生命を抹殺する権利は国家といえどもない。かくも理不尽な基盤をあらわにしつつも、死刑はなぜ存続しつづけるのであろうか。それほどまでに死刑に魅力がなぜあるのか

「いま、なぜ死刑廃止か」 (菊田幸一・著 43~45ページ) より      
  
たしのやったことを正当化することはできない。理解できない。しかし、わたしのやったことを理解し、そこから大きな社会的意義を引き出すことはできる  
   
理解できない」と言っていながら、「理解し、そこから大きな社会的意義を引き出すことはできる」と言っている。いったいどういうことか。論旨がメチャクチャだ。

それほどまでに死刑に魅力がなぜあるのか。
 
  
何という言い草か、死刑に魅力があるとは。人の生命を無残に奪った者に生きる権利はない。だからこそ死刑という刑罰が必要となる。必要だから、死刑賛成者はそのことを主張しているにすぎない。

 
  
  
にほんブログ村 経営ブログ マネジメントへにほんブログ村
                            19439297.jpg


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。