検証 「エッセイを書くたしなみ」 6   [ブログ]

文章上達の基本 

 一応満足がいくように書けたとする。しかし読み返してみると、補足しないと意味が伝わりにくいところ、変えたい表現などが、かならず出てくる。合評会には、きれいに清書したものを提出してもらうことになっているので、文章の途中に「吹き出し」で書き加えたものや、棒線で訂正したり、抹消したものをそのままだすわけにはいかない。また書き直しである。ワープロなら、こうした作業は非常にらくではある。
 (省略)。
 文章能力は遺伝するかのようにいわれる場合がある。世間には二世のライターが珍しくないし、私の教室にも有名な作家の娘さんが在席していて、いつもとてもよいエッセイを書く。これらは才能の遺伝なのだろうか。
 私はふと思ったのである。遺伝も否定はしないけれど、彼、もしくは彼女たちは、作家としての親の仕事ぶりを、子供のときから、じっくり見ていたのではないか、と。書いては消し、消してはかく。あるいは原稿用紙を丸めて捨てさる仕草など。徹夜をし、呻吟し、ものを書くという仕事は、けっして安易なものではないと、親の後ろ姿を眺めて、身に沁みて感じていたにちがいないのである。

 かく申す私も、けっして文章能力があるなどと思ってはいないけれど、父親がものを書く後ろ姿を、いつも見てはいた。私の父は作家ではなくて、作家になりそこねた新聞記者であった。その悲哀を背中に滲ませて、原稿用紙に向かっているときが多かった。書いては消し、消しては書いて、また考えて、丸めて、捨てて。
 
  「門前の小僧習わぬ経を読む」ということばがある。どんな職業にもそれはあるにちがいない。もの書きにもそれはあった。といま気がつく。逆に発想すれば、書きっぱなしで提出するひとは、謙虚さが欠けているわけでもなく、手間ひまをいとうているわけでもないのかもしれない。文章というのは練るものだという基本を教わる機会がなかっただけなのだろう。

 (省略)。
 文章を手直ししたとき、犯しやすいミスについて最後にふれておく。手直ししたら、その文章の前後の文章との整合性に、注意深く目を配らなければならない。たとえば、よい表現だと思って変えたものの、印刷されたものをみたら、ほんの二、三行前に、同じ表現を使っていた、などというみっともない失敗を、私はよくやらかしている。
「エッセイを書くたしなみ」 (木村治美・著 261264ページ) より 

私はふと思ったのである。遺伝も否定はしないけれど、(省略)ものを書くという仕事は、けっして安易なものではないと、親の後ろ姿を眺めて、身に沁みて感じていたにちがいないのである 

この「思ったのである」「ちがいないのである」は、「思った」「ちがいない」の方がすっきりする。「のである」はまったくの蛇足だ。 

かく申す私も、けっして文章能力があるなどと思ってはいないけれど、父親がものを書く後ろ姿を、いつも見てはいた。 
 
確かにそうだろう。著者の文章表現には首を傾げてしまうところが多々ある。目の付けどころにはなるほどと思えるところがあるが、その文章表現は洗練されているとは言えない。「かく申す私」などというその表現にはこの上なく違和感がある。 

文章を手直ししたとき、犯しやすいミスについて最後にふれておく 

著者の「上から目線」の姿勢がここにある。このことに違和感を覚える読者はかなりいるのではないか。

 
  
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