追悼 大島渚監督   [情報]

「大の大人が何を見ようと自由であるべきだ」

  

【大島渚監督死去】反骨心あふれたアウトロー 孤立恐れず「大島渚」貫く 

http://www.47news.jp/47topics/e/237496.php

映画監督の大島渚 さんは、信念を守るために孤立を恐れず闘い続けたアウトローだった。その生き方は反骨心にあふれ、映画を通して社会に対して問い掛けを続けた。

代表作「愛のコリーダ」のスチール写真を収録した本をめぐり、わいせつ文書図画販売罪に問われた「愛のコリーダ裁判」。審理のポイントは、芸術か、わいせつか。ところが、大島さんは「わいせつがなぜ悪い?」。「わいせつに当たらない」とした無罪判決に対しても「議論を逃げられた」と悔しがったという。

 

大島渚監督が80歳の生涯を閉じました。私は、1976年に公開された「愛のコリーダ」で大島監督を知りました。話題になったこともあって私も映画館に足を運びました。しかし、それは至る所でズタズタにカットされたりぼかされていたりして非常に納得できないものでした。

 

大島監督は、脚本などが警察に摘発され、長期にわたる裁判の被告となりました。しかし、多くの人の支援もあって無罪を勝ち取ることができました。「大の大人が何を見ようと自由であるべきだ」という大島監督の主張はもっともなものです。国家が「これは見ていいがこれは駄目」と言うのは、国民を愚ろうしています。

 

「猥褻」であることを理由としてその出版や放映を禁止するのは、そういうものを野放しにしていると国民が性犯罪に走ってしまうと言っているようなものです。裁判の場で検察はそういう主張をしていました。「猥褻」の概念があいまいであるのに、それは規制できる(規制しなければいけない)という思い上がりが当時の検察にはあったと思います(現在もそれは残っていますが)。

 

「猥褻」であるのかないのかの線引きはできないと思います。できるとするならばそれは、極めて規制する側の恣意的なものになることは明らかです。曖昧な概念のものを法律で規制すること自体に無理があります。未成年の者に対する配慮は必要ですが、大の大人が何を見ようともそれは本人の自由意思が尊重されるべきです。

 

ネットが発達した現在では、ネットの世界ではありとあらゆる情報が溢れています。それを規制することは不可能です。大事なことは、如何なる情報に対してもそれを正しく受け止める能力を育てる教育にあると思います。誘惑に駆られない子供を育てることが教育に求められると思います。

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