携帯世代の文章表現 2   [言葉・文章]

論理的思考力の欠如

 

メールにしても手紙にしても、文字で思いを伝えるという行為の前提には「考える」という行為があります。「考える」とは頭の中にあるもやもやしたものを理詰めで整理するという事です。その際ただ頭の中だけで考えていてはうまくまとまりません。これは難しい数学の問題を解く場合に書いて答えを出すのと共通します。

 

簡単な数の計算なら暗算で答えが出ますが、複雑な数の計算はそういう訳にはいきません。書いて計算の過程を目に見える形にする必要があります。「書く」ことによって計算の過程を振り返ることができ、間違った答えを出した場合にはどこで間違ったかを検証できます。

 

複雑な人間関係の問題も「書く」ことによって考えを整理して問題がどこにあるかを明確にすることができます。書いたものを読み返すことによって間違った考えをしていることにも気付きます。これは、自分を客観視するという事です。第三者の目で自分を見つめ直すからこそその誤りに気付きます。

 

しかし、「話す」場面では自分の発言を客観視することはできません。感情を発散しているだけで何を言っているかわからないケースはよくあります。感情的になると聞き手が理解できないのは無理もないのに、そのことを聞き手の責任にしたりします。まったくもって情けない限りです。

 

私のある知人(男性)は、「書くのは苦手だが話すことには自信がある。相手が納得するまで何時間でも話すことができる」と言います。しかし、むやみやたらに話せばわかるというものではありません。相手にわかって貰うにはそれなりの話し方があります。それを彼は思い違いしている節があります。

 

彼は確かに「書く」ことは不得意です。私は彼から一度だけ手紙を貰いましたが、それは実に稚拙な内容のものでした。じっくり時間を掛けて言葉を紡ぎ出すという努力をしないことがそういう手紙になっていると言えます。

 

「話す」という事は特別な訓練をしなくても自然と身に付きます。耳から入る言葉をまねる事で子供は話す事を覚えます。しかし、「書く」という事は訓練をしない事には身に付きません。手を動かすという訓練を通して文字を覚え、考えていること(思い)を文字で表記する方法を身に付けます。

 

「書く」という行為は、まさに「考える」という行為そのものです。考えていることを視覚化したものがメールや手紙といった形あるものになります。そのために、何を言いたいのか訳のわからないメールや手紙は考えていない事を証明することになってしまいます。

 

私は、時間を掛けて言葉を選択できるメールや手紙を重宝しています。ブログも時間を掛けて何度も書き直しています。書き直したのがこの程度かと言われれば身もふたもないのですが、正直に自分をさらすことに意味があると思っています。

 

そこで私は、話す事なら自信があるという彼に私の疑問を手紙でぶつけてみました。しかし、彼からその返事はありませんでした。おそらく彼は、「書く」ことだけでなく「読む」ことも苦手であって、余計な時間を掛けたくないという事だろうと思います。だからこそ、時間を掛けなくても済む「話す」ことに比重を置いているのだろうと思います。

 

日常的に「話す」場面では話す内容を前もって吟味する必要はありません。多くの場合、思い付いたままに話す事で用は足ります。しかし、大勢の聴衆を前にして講演(演説)する場合などは事前に話すことを整理し原稿を用意しておいた方が無難であることは確かです。

 

大事な事は相手に伝わるという事です。「相手が納得するまで話す自信がある」と言っても、時間を掛ければ伝わるというものでもありません。そこには伝える技術が必要となります。そしてそれは、多くの場合「書く」訓練を通して培われます。

 

時間を掛けて書いたメールや手紙であっても、その後にあらためて読み直してみると表現が適切でない場合があります。それだけに、面と向かって話す場面では言葉の選択にはより慎重であるべきです。

 

論理的思考の重要性

http://www.logicalskill.co.jp/logical/importance.html

 

 

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