蔓延する想像力の欠如 [死刑廃止論]
迷惑この上ない無頓着の横行
「(無題)」
2012年10月10日 水曜日
http://wind.ap.teacup.com/ippo-nifo/
それは現在の日本人を覆っている(おおっている)劣化の顕著な例だと思います。いろいろな場面で経験します。
想像力の欠如。まったくその通りだと思います。日常生活における些細なトラブルから刑事事件に至るまでそのことは言えると思います。
「想像力の欠如ばっかりだ」 自己啓発 教育
2012年10月10日 水曜日
そのようにして個の能力が維持されている集団は、個の力が集団の役に立っているわけで他の集団と比較すればより優れた集団でしょう(断定はできないかも知れませんが、そう思えます)。
以上、更新されたばかりの記事のかなりの部分を引用しましたが、まったくもってその通りだと思います。
その記事を読んで思ったのですが、死刑反対論者の Key さんは、「犯罪の被害者遺族になったことがない人が、さもわかったかのように遺族感情を持ち出して加害者を批判(死刑賛成を主張)するのは間違っている」というようなことを言っています。私はその主張に違和感を覚えます。怒り悲しむ遺族の思いに感情移入することは、人として当然の事なのではないのでしょうか。
「想像力の欠如」という観点で死刑問題を論じるとしたら、想像力が欠如しているのはどちらなのでしょうか。私は、死刑反対論者こそが、人としての想像力を欠いていると思います。
裁判の場において遺族は長い間、蚊帳の外に置かれていました。それが、光市母子殺害事件の遺族の 本村 洋 さんたちの努力で遺族が裁判に参加できるようになりました。これは、司法という権力がいかに遺族の思いに対して想像力を欠いていたということではないのでしょうか。
遺族感情に配慮した判決があって当然だと思いますが、これについても死刑反対論者から批判があります。果たして、遺族の怒りと悲しみに満ちた思いを量刑を判断する場合の資料とすることは、避けるべきなのでしょうか。加害者の死刑を求める遺族の声が多ければそれに配慮することは当然のことではないのでしょうか。
原田正治 さんみたいに加害者の死刑を求めない遺族もいます。その場合にはその声に配慮して、死刑の執行を停止(延期)すればいいのではないのでしょうか。
死刑反対論者は、死刑に賛成する人のことを感情的過ぎると批判しますが、死刑反対論者の方こそ、感情的になっているところがありはしないのでしょうか。死刑反対論者の反論をぜひ聞いてみたいものです。
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死刑賛成と、「被害者遺族感情」を利用して叫ぶ人を、私は決して信用しない
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