東日本大震災から4年と4ヶ月 [東日本大震災]
転載元 ⇒ 山と土と樹を好きな漁師
「月命日」ー 【震災から今日は4年4ヶ月の月命日です。大切な人の死を悼み、今も悲しみの日々を生きている人はたくさんいます。数字化される人の死。違和感を覚えます】
「月命日」ー
【震災から今日は4年4ヶ月の月命日です。大切な人の死を悼み、今も悲しみの日々を生きている人はたくさんいます。数字化される人の死。違和感を覚えます】
【震災から今日は4年4ヶ月の月命日です。大切な人の死を悼み、今も悲しみの日々を生きている人はたくさんいます。数字化される人の死。違和感を覚えます】
2011年3月11日 14時46分 東日本大震災あれから今日は4年4ヶ月の月命日です。
【震災死者・行方不明者数】(原則毎月10日警察庁発表)
2015年6月10日現在:死者 15,897人、行方不明 2,593人
震災関連死 平成 27 年5月 30 日現在)1都9県で合計 3,258人。
2015年6月10日現在:死者 15,897人、行方不明 2,593人
震災関連死 平成 27 年5月 30 日現在)1都9県で合計 3,258人。
東日本大震災では、多くの方が亡くなり、今も震災関連死で仮設住宅で亡くなっていく人がいるのが現実です。
大切な人の死を悼み、今も悲しみの日々を生きている人はたくさんいます。
大切な人の死を悼み、今も悲しみの日々を生きている人はたくさんいます。
震災から今日は4年4ヶ月の月命日です。
震災直後から気になっていたことがあります。
多くの人々は、「悲しんでばかりいてはならない、顔を上げて前に進まなくては駄目だと」言われ続けてきました。
多くの人々は、「悲しんでばかりいてはならない、顔を上げて前に進まなくては駄目だと」言われ続けてきました。
でも、悲しみは人の感情です。だから、思いっきり悲しんでいいと思うのです。
悲しみながら前を向いていきていくこそ、人間の自然な姿だと思うからです。
また、被災地に限らず、例え大事な人を亡くしても誰しもがやってることなんですから。
また、被災地に限らず、例え大事な人を亡くしても誰しもがやってることなんですから。
【死者を感じるのは、悲しみを受け入れ、生きている時こそ】
しかし、私たちは本当に悲しむことをやめなくてはならないのでしょうか。
むしろ、人々は、悲しみがあるから生きていける、悲しむとき、亡くなった人をはっきり感じるのではないでしょうか。
しかし、私たちは本当に悲しむことをやめなくてはならないのでしょうか。
むしろ、人々は、悲しみがあるから生きていける、悲しむとき、亡くなった人をはっきり感じるのではないでしょうか。
僕は、震災の年の元日に母を失いました。母は311東日本大震災を見なくて済んだのですが、僕の中で母は心の中で生きています。やはり、母を亡くした悲しみは、今でも消える事はありません。そして、時折襲ってくる、「悲しみ」。その時に母をはっきり心の中で感じるのです。
消えたの母の肉体。死者となった母は、以前よりも、むしろ近くに感じるようになることがあります。
自分は今、「不漁で窮地の状態」にありますが、そんな日々の中で「母は生きていたら、どんな言葉を僕に掛けるのだろうか・?」と想像します。
父も17回忌が過ぎましたが、漁師だった父ならやはり、どんな言葉を僕に掛けるのだろうか・?」と想像します。
そして、その存在を感じるのは「悲しみを生きているときであること」に気が付くのです。
消えたの母の肉体。死者となった母は、以前よりも、むしろ近くに感じるようになることがあります。
自分は今、「不漁で窮地の状態」にありますが、そんな日々の中で「母は生きていたら、どんな言葉を僕に掛けるのだろうか・?」と想像します。
父も17回忌が過ぎましたが、漁師だった父ならやはり、どんな言葉を僕に掛けるのだろうか・?」と想像します。
そして、その存在を感じるのは「悲しみを生きているときであること」に気が付くのです。
死者となった両親が、今では、以前よりも近くに感じるときがあるのです。
そして、もっと強く、その存在を感じるのは悲しみを生きているときであることに気が付きます。
死者というと怪しげな感じを抱かれるかもしれません。しかし、人に言わないまでも誰もが、死者を心の中で身近に感じながら生きているのではないでしょうか。
死者というと怪しげな感じを抱かれるかもしれません。しかし、人に言わないまでも誰もが、死者を心の中で身近に感じながら生きているのではないでしょうか。
【悲しみを抱えて生きる事は「愛しく」く「美しい」こと】
震災で家族や身近な人を亡くした方々も、きっと同じように、死者を心の中で身近に感じながら生きているのではないでしょうか。
震災で家族や身近な人を亡くした方々も、きっと同じように、死者を心の中で身近に感じながら生きているのではないでしょうか。
津波で突然、家族を亡くした遺族は言います。特に子供を亡くした遺族は「この悲しみは自分が死ぬまでなくならないだろう」と。
それは極自然の事であたり前のことです。だからそれでいいのだと思います。
死者の姿は見えず、その声も聞こえません。しかし見えない、ふれ得ないということと、それが存在しないことは違うのですから・・。
また、死者との関係を深めていくうちに、生者と死者の関係を切り結ぶためには、どんな宗教も思想も必要がないことです。
私たちは静かに内なる死者の響きを感じるだけで足りるのはないでしょうか。
古来「かなし」は「悲し」とだけでなく、「愛し」と書いて「かなし」と読んだのです。「美し」すら、「かなし」と読んだと言います。
これは古代の人々だけの思いではなく、死者を思うとき、現代に生きる私たちが感じていることでもあるのではないでしょうか。
【数字化されるていく死者 違和感が】
東日本大震災で、多くの人がなくなりこのような事を書くのは、遺族の事を思えば今まで書けいてはいけないような気がして、書いてきませんでした。
でも、死者が単なる数字となっていくのではないか・・。亡くなった一人一人の生命の重み、遺族の思いを考えれば、【震災死者・行方不明者数】(原則毎月10日警察庁発表)2015年6月10日現在:死者 15897人、行方不明 2593人 と数字だけ書くのはあまりに機会的に数字化されて、軽率なんではないかと思ったからです。
東日本大震災で、多くの人がなくなりこのような事を書くのは、遺族の事を思えば今まで書けいてはいけないような気がして、書いてきませんでした。
でも、死者が単なる数字となっていくのではないか・・。亡くなった一人一人の生命の重み、遺族の思いを考えれば、【震災死者・行方不明者数】(原則毎月10日警察庁発表)2015年6月10日現在:死者 15897人、行方不明 2593人 と数字だけ書くのはあまりに機会的に数字化されて、軽率なんではないかと思ったからです。
ともあれ、今日は4年4ヶ月の月命日です。
今日一日のうちに、1分だけ、東日本大震災で亡くなった死者の御霊に黙祷をお願いいたします。