死刑は論理的にも倫理的にも間違っている   [死刑廃止論]

論理的根拠に欠ける死刑条項

  

以下、菊田幸一氏の「いま、なぜ死刑廃止か(1994) より (40~41ページ)。読みやすくするために改行し、さらに空行を設けて転載。

  
 きわめて概括的にいえば、死刑がひろく一般的に刑罰の一種として、懲役、禁固、罰金そして死刑という並列された刑罰の一つとして多用されていたならば、刑法上の責任主義もかなりの部分において死刑適用に特段の違和感は生じなかったかも知れない。

 しかし、こんにち、現実に処刑される者は、受刑者に限ってみても犯罪者のなかの一万分の一というまさに希有の適用である。

 そのことは、このような希有な行為者がいかなる状態において死刑に該当する行為を実行したかは、他の一般の犯罪行為とは比較にならぬほどに状況が分析されなければならない。


 ところが、たとえば責任の量を「計ることができない者」(死刑相当)と「計ることができる者」(有期刑相当)との区別は現実には不可能である。

 この点だけを取り上げても責任論は論理的分析に耐えるものではない。強盗犯人であれば、その者が善悪の判断をしたうえで行為に及んだかどうかに裁判官は頭を悩ませることはない。自分の経験と常識で量刑相場を決めればよい。

 ところが死刑に限ってそれができない。なぜなら責任の量を「計ることができない者」という断定をしなければならないが、その合理的根拠がないのである。それを無視して死刑を選択している故に死刑は論理的にも倫理的にも間違っているのである。
 
刑法上の責任主義もかなりの部分において死刑適用特段の違和感は生じなかったかも知れない。  


刑法上の責任主義も」とはどういうことか。それはどの言葉にかかるのか死刑が他の刑罰と同様に多用されていたならば、そのことに特段の違和感は生じなかった、ということか。そうだとしたら、それは死刑認めているということではないのか

この後、「多くの裁判官は、この論理的矛盾に気づいていないのであろう」と続く。そして、「そこで一つの材料を提供しよう」と、さらに説明が続く。しかし、その説明がまたしても実にわかりにくい。

  

自分の頭の中ではわかっているつもりでも、それを他人にわかりやすく説明することは非常に難しい。菊田氏は、まさにそれを証明している。死刑賛成者が8割を超える現状で、それを変革するにはもっとわかりやすい説明をする必要がある。

  
誰かに、複雑なことを、わかりやすく説明する必要性
http://nedwlt.exblog.jp/18069530/
 
できる人が必ず持っている 「わかりやすく説明する力」

http://shuchi.php.co.jp/article/1137

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