(試案)死刑反対論を検証する 1 [死刑廃止論]
元清瀬市議会議員の布施哲也氏は、「殺されたくないが、殺したくもない 」と題して次のように言っています。( → 死刑廃止 info! )
「殺」を想像してみる。自死は否定しないが、他者に殺されたくはない。そして、他者を殺すこともいやだ。他者を殺さないのなら自分が殺されるという、究極の選択を問われたらどうか。逡巡するだろうが、やはり殺すことはできない。殺されたくはないが、殺すこともいやだ。
果たして他者に殺されることを良しとする人がいるでしょうか。誰がそれを希望するというのでしょうか。人生に絶望して自死(自殺)を考えているひとならいざ知らず、明るい未来に向けて意欲満々な人が突然にその人生を閉じるようなことになるとしたら、それはこの上なく無念なことであるはずです。
災害や事故によって突然その人生が閉ざされるケースもありますが、犯罪による場合、加害者を憎んでも憎み切れるものではありません。通り魔事件の場合、殺害の対象は誰でもいいのですので殺害される側はたまったものではありません。恨みを抱く者に殺されるのなら自分にも責任の一端があるでしょうが、見も知らぬ者に殺されるということは誰一人として納得できないはずです。
「他者に殺されたくない」-これはあえて言うまでもないことです。それに続いて「他者を殺すこともいやだ」とありますが、これも大方の人に共通することではないでしょうか。「殺されたくないから殺したくもない」というのは、死刑に反対する根拠としては極めて非論理的な発想と言わざるを得ないのではないでしょうか。
「他者を殺さないのなら自分が殺されるという、究極の選択」について触れていますが、これは正当防衛のことかと思います。それについては「やはり殺すことはできない。殺されたくはないが、殺すこともいやだ」と結んでいます。それではどうするのかという事がそれではわかりません。いったいどういう事でしょうか。
強盗を殺さなければ自分が殺される究極の場面において、潔く殺されるか、それとも強盗に立ち向かうかという選択をせざるを得ないのに、「いやだいやだ」と言うだけでは殺されることになるのは明白です。いやだけどしなければならないことは、私たちの周りにいっぱいあります。死刑もその中の一つと言えると思います。
死刑という究極の刑罰以外には考えられない犯罪があるからこそ、死刑が必要なのです。理想的なのは、死刑判決を下す必要のある犯罪がなくなることです。死刑になりたくなかったらそういう犯罪を起こさなければいいだけの話です。
また、「人を殺すことは許されない」と題して次のようにも言っています。
人を殺すこと、つまり殺人は殺人罪という犯罪となる。もうひとつ、人に罰を加えることがあっても、体罰という暴力を加えてはいけないはずだ。でも「死刑」とは何なのだろうか。それは、国家という権力による究極の暴力に他ならない。国家(権力)は、その国民には、「人に暴行を加えてはいけない。ましてや、人を殺してはいけない」と定めながら、自らは死刑という殺人を犯しつづけている。
この主張も極めて非論理的です。自己矛盾に満ちているという言い方が適切かも知れません。
かけがえのない人命を奪う行為は法律に反したものです。反したことをしたから刑罰としての死刑があるのです。死刑はあくまでも合法的なものです。結果として人命が失われるという点に置いては、同じです。しかし、取り返しの付かないことをしたからこそ、取り返しの付かない死刑という刑罰があるのです。あらためて言うならば、死刑がいやならば、死刑になるようなことをしなければいいだけの話です。
死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_fuse.html
布施哲也氏の主張を何度も読み返して思いました。その論旨展開のあいまいさは、森 達也氏と共通していると。
死刑に反対するその根拠を論理的に説明できていないところはまったく同じではないかと思います。
「私はこう思う」ということだけの意思表明ならばそれでいいかもしれませんが、そういう意思表明だけでは問題解決には程遠いのではないのでしょうか。論戦を挑むという気概があってもいいのではないでしょうか。
by クレーマー&クレーマー (2012-09-15 12:28)